エンタングル:ガール 舞浜南高校映画研究部【第22回】
第6話「エントロピック・アシンメトリ」1
前回のあらすじ
舞浜南高校映画研究部一年のカミナギ・リョーコは、時間がループしていることに気がついた。舞浜も映研のみんなも自分も、量子コンピュータによって計算され続ける幻に過ぎないのだ。情報の世界で、自分自身も情報体になって、それでも映画を撮る?――カミナギは世界と自分を見失う。⇒ 第21回へ
どうして映画なんて作ろうとしてたんだろう。
映画監督には、もう、絶対になれないのに。
カミナギは職業としての映画監督になりたかった。でも実際の――量子サーバーの外側の――世界がなくなってしまっている以上、それはつまりすべての職業を支える社会がなくなっているということで、映画監督どころか生きていくことだって難しい。
しかも今は二〇二二年ではないのだ。正確な数字はわからないが、現実にはもっと時間は進んでいて、それなのにわたしがいるこの世界は同じ二〇二二年の百四十九日間を繰り返している。
気づいたのは突然だった。夢の中で夢を見ていると認識するみたいに。
でも、こんなに鮮明に夢の中で思考できるはずがない。これが、この計算上の幻の世界が今のわたしの現実なんだ。
カミナギは一睡もできず、裸足のままベランダに出た。
昇りかけの太陽は舞浜の街を照らしていた。
「それでも朝は来るんだ」
見渡すかぎりのこの光景だって、量子コンピュータの演算結果で、本当はどこにもありはしないのだ。現実じゃなくて、現実感だけ――。
そう思うと涙がこぼれた。
足の裏から伝わるコンクリートのひんやりとした質感も、全身を包む風も、わたしの意志も、すべてはスクリーンに映る幻なのだ。
映画監督になるなんて――幻のわたしの夢なんて――むなしいだけだ。幻に幻を重ねてどうなるっていうんだ。
カミナギは家族の顔を見たくなくて、制服に着替えてから静かに家を出た。部活があると書き置きを残して。
学校に行くこともためらわれた。あそこにいるのはみんなわたしと同じ幻なんて。
雨のなか、カミナギは傘もささずに、ふらふらとマンションを出た。
たどりついたのは映画館だった。
かかっているのは『去年マリエンバートで』。ミズキが好きだと言っていた。あれ? わたし、いつミズキから訊いたんだっけ?
映画館の入り口には誰もいなかった。券売機は動いていて、お金を入れてボタンを押すとチケットが出てきた。
売店のガラスケースのうえにポップコーンが並んでいた。触るとまだ温かい。誰かを呼んでみても返事はなかった。代金を置いて、ポップコーンを持って、劇場内に入る。
そこにも当然のように誰もいない。
そういえば舞浜の街全体も、高校以外ではほとんど人とすれ違うことはない。今までいたと思っていた人は、わたしの思考に合わせて作られた仮想人格だったのだ。勝手に世界の秘密がわかっていく。
映研のカノウ部長が撮った映画にも、人はいなかった。もしかしてカノウという人はこの世界の秘密を知っていたのだろうか。
『マリエンバート』のホテルでは何度もゲームが行われる。キョウちゃんが必勝法を教えてくれたような気がするが思い出せない。監督はアラン・レネ。『ヒロシマ・モナムール』も彼の作品だ。
カミナギはこの映画館で、『モナムール』をリメイクしようとするドキュメンタリー風の日本映画『H Story』を見たことがある。リメイクはうまくいかず、主演の男女はヒロシマをさまよう。
あのときはまったく意味がわからない映画だったけど、今はわかる。あれは広い意味の未完成映画だったんだ。未完成を完成させようとする映画かと思っていたけど、違う。あれは未完成を描こうとした映画だったんだ。わかりやすい記憶や物語はフィルムに定着されないまま、映画は終わる。主演のベアトリス・ダルがとてもきれいだった。どことなくミズキに似ていたかもしれない。
わたし、本当にそんな映画見たのかな。見ている映画と見た映画とまだ見ていない映画が、現在と過去と未来が混ざり合っているみたいだ。しかもひとつひとつの時間も自らと交差し、結ばれて、たやすく全容は見えてこない。
『マリエンバート』が終わって映画館を出た後、どこをどう歩いたのか覚えていない。
覚えているのは幼なじみの声だけだ。
「カミナギ!」
いつのまにか舞浜の水族館のまえにいた。ずっと感じていたはずの潮風にようやく気づく。
「おい、カミナギ!」
「キョウちゃん。本物のキョウちゃん?」
「ああ、オレだ。オレだよ」
目の前が明るくなる。額のまえあたりに何かが浮かんでいる?
「カミナギ……覚醒したんだな」
「覚醒?」
「自分が置かれている状況を、量子コンピュータで計算されているという現実を、量子コンピュータの中にいながら認識したんだよ」
キョウがカミナギを抱きすくめた。
カミナギは幼なじみの胸に顔をうずめる。
あたたかい。このぬくもりが情報だとしても、そんなことは関係ない。
「落ち着いたか?」
ゆっくりと見上げると、キョウの顔が思っていたよりも間近にあって、急にカミナギは自分がキョウの腕のなかにいることが恥ずかしくなった。
カミナギはキョウを突き飛ばすようにして走り出した。
「おい! カミナギ!」
水族館の地下は薄暗く、壁はずっと水槽が続いて、まるで水の中を歩いているようだった。カミナギはクラゲが入った暗い水槽のまえで立ち止まり、ガラスに映り込んだ自分の全身を上から下まで何度も見直した。
自分の姿の向こうには様々な魚が泳いでいる。
それから目の前で両方の手を開いたり握ったり、くるくると動かして眺め回した。間違いなく、わたしの手、わたしの体だ。肌のしたには血管が見える。手のひらを爪で押すとわずかな跡ができて、すぐに消えた。
コンピュータグラフィックスと人間の区別がつかなくなったのはカミナギが中学生の頃だった。今こうして見えているわたしが人間である保証なんてない。
それでもカミナギは水槽に近づいて自分の瞳を凝視した。
カメラと人間の目は構造からしてまったく違う。人間の目にはレンズのような水晶体があるが、厚さの変化するレンズなんて――実験的に作られたものを除いては――カメラに使われることはない。カメラは複数のレンズを組み合わせて世界を写し取る。
わたしが情報体だとして、わたしの身体のすべてが計算結果にすぎないとして――それを受け入れることはひどく困難なのだけれど――わたしの目は人間的なものとして設計されているのだろうか。
ガラスに映るカミナギの目はうっすらと充血していた。昨日からずっと泣いているからだ。
カミナギはしばらく目を開けていたが、ためいきと共に両目を伏せた。
外見をいくら見ても仕方ない。
もしこの世界が、あるいはこの世界を作った誰かが、情報体であるわたしを騙そうとするなら、わたしが感じ取る視覚情報は人間的な、ひどく不均一なものにするに決まっている。人間的な曖昧な目を持っているからこそ、カメラが捉えた映画を楽しむことができるのだと映画監督の誰かが言っていた。
「カミナギ……さん」
名前を呼ばれると思っていなかったカミナギは飛び上がりそうになった。
振り返ったところには、初めて会うはずの少女が立っていた。でも、会った記憶がある。長い黒髪。カミナギは一度見た人の顔を忘れない。キョウと一緒にいた少女だ。キョウちゃん、俳優の顔が覚えられないって言っていたっけ。
「キョウちゃんに頼まれた?」
「キョウは、彼は、あなたのことを心配している。だけど今はあなたをそっとしたほうがいいと思っているみたい。私がここに来たのは私の意思」
「意思って。あなたにもわたしにも、本当の意思なんてあるのかな」
「自己再帰性――自らが自らを感じるという意味でなら、今あなたが感じているように、あなたには意思がある。私にも、ある」
黒髪の少女の目は深い悲しみに満ちているようにカミナギには感じられた。彼女と目を合わせていると、自分まで悲しくなってくる。
少女が手を伸ばして、カミナギの頰に触れた。
「え? なに?」
「涙が。こぼれそうだったから」
カミナギは少女の手をそっと握った。あたたかで、やわらかい。
胡蝶の夢という言葉がふいに頭にうかんだ。
カミナギはつぶやく。
「わたしの見ているものも考えていることも、夢なのか幻なのか、自分のものなのか誰かのものなのか、わからない」
胡蝶とは蝶の雅名だ。あるとき荘子が蝶になった夢を見て目覚めたのだが、もしかすると今まさに蝶が荘子になった夢を見ているのかもしれない、という話でこのまえの漢文の授業で習った。でもその記憶自体が誰かの記憶かもしれない。
「……帰ります」
「送るわ」
「ほっといて!」
「カミナギさん。世界のエンタングルメントエントロピーに囚われないで。あなたの自我が失われてしまう」
「何それ。誰とも話したくない!」
この苛立ちも、苛立ちを感じているわたしの自意識のようなものも、すべてはそのように作られているだけのものだ。
体も心も重い。
真夏の日差しに包まれて、すぐに汗がにじんだ。
遠くからキョウの声が聞こえる。
世界と自分の境界線が静かに解けていく。
著者:高島雄哉
次回3月9日(木)更新予定
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